公開: 2019年11月11日
更新: 2019年11月xx日
1968年、戊辰戦争の末、幕府から日本の行政に関する権限を手中にした長州藩と薩摩藩の人々は、京都の公家たちと協力して、天皇が日本の行政全体に権限をもつ、中央集権的な政府を作ろうとしていました。それは、アジアの諸国がヨーロッパの列強諸国によって植民地支配された現実から、早急に日本を統一して、経済力を高めるとともに、軍事力でも西洋の列強諸国と戦えるような国を作らなければならないと考えたからでした。
そのような国は、天皇を中心とした中央集権によって、西洋社会にある様々な制度を、国の力で導入するのが手早い方法だと考えました。薩摩藩出身の大久保利通は、近代国家建設のために鉄道を敷設し、農民も含めて男性の国民すべてが、武器を持って戦うことができる兵隊になる国民皆兵の制度を導入し、商工業の要(かなめ)となる銀行を設立し、大学と日本国民の知的な水準を高めるための教育などもせいびしました。さらに、日本で生産した生糸や絹織物を輸出するために、製糸工場を作ったり、鉄を作り出す製鉄所などもつくりました。
このような一連の西洋化のための準備の最後が、憲法の制定でした。長州藩出身の伊藤博文は、憲法制定のためにイギリスやドイツなどを視察して、天皇をヨーロッパ諸国の国王のような存在とする「立憲君主制」の確立の基礎となる憲法を制定することを考え始めました。その手本としたものは、ドイツの憲法だったそうです。しかし、ドイツの憲法では、国王はキリスト教の神から、領国ドイツの統治を任された存在であり、その権威は絶対ではありません。神が「絶対」だからです。伊藤博文は、天皇は絶対の権威を持っていなければならないと考え、天皇を西洋諸国の神のような存在にすることを考え、天皇を絶対的支配者とする大日本帝国憲法を作り上げました。
この大日本帝国憲法(明治憲法)では、法律の制定と行政機関の長である各大臣とそれを取りまとめる総理大臣を選任し、大臣たちが官僚による行政を統括します。天皇は大臣たちの合議制による行政権の執行について責任を負いますが、その内容については直接関わることはできません。それは、天皇を絶対的権威とするため、天皇が誤る可能性のある行政の決定に関わることを避けるためでした。また、天皇は軍隊、すなわち陸軍と海軍を代表する陸軍元帥と海軍元帥を統帥する大元帥としても位置づけられました。天皇は、軍と行政を別々に監督する任務がありました。
第2次世界大戦に関与した昭和天皇は、この軍と行政が、それぞれ別々な問題意識で物事に当たる現実に困惑したようです。また、内閣が全員一致の合議制で運営されていたため、複雑な問題を解決できないと言う制度的な問題にも直面しました。責任が明確にできない制度では、大臣は官僚組織の代表者に過ぎず、自分が代表する組織の意見を述べることしかできません。また、陸軍大臣や海軍大臣もそれぞれの内部における意見を集約した結果を総意として述べることしかできません。このことが、負けることが明白になった状況でも、終戦を決めることができなかった原因の一つとされています。